大判例

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最高裁判所第二小法廷 平成9年(あ)511号 決定

本籍

大阪府東大阪市山手町二三六番地の一

住居

同 東大阪市東豊浦町六番一三号

会社役員

辻子孝義

昭和一八年一一月一一日生

右の者に対する相続税法違反被告事件について、平成九年三月一二日大阪高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から上告の申立てがあったので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人黒田修一の上告趣意は、違憲をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認、量刑不当の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 河合伸一 裁判官 大西勝也 裁判官 根岸重治 裁判官 福田博)

平成九年(あ)第五一一号

上告趣意書

相続税法違反 辻子孝義

右被告人に対する頭書被告事件につき、平成九年三月一二日大阪高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から申し立てた上告の理由は、次のとおりである。

平成九年七月二日

右弁護人 黒田修一

最高裁判所第二小法廷 御中

原審判決には、憲法違反がある上、判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認があり、この誤った事実認定を基に量刑されていることから、刑の量定が甚だしく不当であって、刑事訴訟法四〇五条、同法四一一条二号、三号によって、原審判決を破棄されるよう求める。

第一 憲法違反について

被告人の本件ほ脱事犯の故意は、約二億円の課税があるものとして、これを免れようと決意し、犯行に及んだものであって、これが、遺産分割協議書作成過程において、関与税理士という第三者の意思が加わったことにより、結果として約四億円の脱税事犯に問われたものであるところ、右のような故意の正しい認定ができていないことから、被告人の故意によらない行為にまで、刑事責任を認めたものであって、罪刑法定主義を定めた憲法三一条に違反する。

第二 原審の事実誤認について

一 本件の争点

本件の事実認定上の争点は

1 遺産分割協議は、存在したか否か

2 遺産分割協議は有効であるか否か

の二点に尽きる。

二 本件における実行行為としての不正行為

本件において、被告人らが敢行した脱税のための不正行為は、架空の八億円の債務をでっちあげた行為と、これを前提として被告人及びその実弟である辻子仁宏(以下「仁宏」という。)が、それぞれ四億円づつこの架空債務を承継したとする遺産分割協議書を作成した点にある(もちろん、かかる内容虚偽の相続税の申告書を税務署長に対して提出した行為も、実行行為の一部を構成することは明らかであるが、これは、ほ脱事犯全般に通じるものであって、本件に独自のものではないから、論ずる要はない)。

三 計上された八億円の債務の架空性について

計上された八億円の債務が架空であったことに関しては、何ら争いはなく、また、原審においても、当然架空であったと認定しているものであり、確定した事実である。

四 遺産分割協議の存在意義について

本件においては、この架空の八億円の債務の計上のみによって、本件公訴事実記載のほ脱金額が決定されるものではなく、遺産分割協議書の存在が、右ほ脱金額を決定する重大、かつ、不可欠の要素となるものである。

ところで、原審は、右八億円の債務は、架空のものであって、当然その債務の存在は否認されるべきものであるとしながら、一方で、遺産分割協議に関しては、相続人間でその遺産分割協議書記載の内容での合意(遺産分割協議)が存在し、その協議は有効であって、この遺産分割協議書を基にして算出される被告人らの相続税額こそが、適正な相続税であると認定している。

弁護人としては、この遺産分割協議書の存否及び有効性に対して疑義を投げかけているものであって、原審が指摘するように(原審判決書五丁裏)、遺産分割協議そのものの不存在を主張するものではなく、端的に表現すれば、脱税目的のために、でっち上げた八億円の借用証が架空のもので否認されるのであれば、同じく脱税を目的として作成された遺産分割協議書も無効であって、結局本件においては、遺産分割協議が整わないものとしての申告となり、したがって、法定相続分による分配がなされたものとして、被告人らそれぞれの適正な相続税額が決定されるべきものである、と主張するものである。

五 本件遺産分割協議は無効である

八億円の借り入れが架空であり、これを無効とするものであれば、その架空の八億円の債務を消極財産として相続財産に含ませた遺産分割協議というものも、一体として当然に無効となるべきものであるのに、原審がこれを有効と判断したことは、明らかな間違いである。

本件で作成された遺産分割協議書は、相続人である被告人、仁宏及び辻子孝子(以下「孝子」という。)三名の署名押印があって、形式的には、有効に成立しているように見える。

しかしながら、その内容においては、被相続人である辻子丈太郎が遺した約一〇億円の積極財産のみならず、架空計上された八億円の債務が、分割対象の相続財産として計上されているものであり、これらの積極及び消極をあわせた全体の相続財産に関しての一体としての遺産分割協議となっているものである。

このうち、消極財産は、架空のものである。しかも、脱税のために、その手段として計上されたものであって、これが架空であることは、被告人及び仁宏は明確に知っていた。反面、孝子においては、このような消極財産が計上されていること自体に、気づいていなかったと認められるのである。

この遺産分割協議書は、それ自体が、架空の八億円の債務の計上と相まって、脱税工作に資するものとして作成されたものであり、この遺産分割協議書に記載された消極財産としての八億円を、被告人と仁宏とが、それぞれ四億円当て相続するということもまた、架空、かつ、虚偽であった。

しからば、この遺産分割協議書は、全体として虚偽の記載のあるものであって、このうちの消極財産の分割の部分のみが無効であり、積極財産に関する部分が、独立して(消極財産とは分離されて)有効となるとの解釈は、とうてい採用されないものである。そもそも、ありもしない債務を被告人と仁宏が承継することとし、その代償として積極財産を大量に承継するとの内容であって、前提となる仮装債務が存在しない以上、積極財産に関しては、新たな分割意思が当然問われなければならないものである。

原審は、積極財産の部分と、消極財産の部分が可分であるから、たとえ八億円の債務が架空・無効であっても、積極財産の部分については有効であるとするが(原審判決書六丁裏)、通常、遺産分割協議が成立する経過は、積極・消極の双方を十分に認識し、検討した結果、協議を成立させるか否かを決するのが、通常人の意識であって、可分であるとする原審の判決は、明らかな誤りである。

重ねて主張するが、積極及び消極の全財産をいかに分割承継するかがこの遺産分割協議書に記載されているものであり、これらは、全体として考察されるべきであるのは当然で、この遺産分割協議書を、積極財産に関してのみ、部分的に有効と考えることはできない。以上の点から、原判決が、この遺産分割協議が有効に成立したものとし、これを基に、被告人らの相続税額を算出したことは、明らかな誤りというべきである。

六 被告人及び仁宏は遺産分割協議書の意味を理解していない

1 孝子に純資産価格の二分の一に相当する積極財産のみを取得させるか、それとも積極財産及び消極財産ともに二分の一を取得させるかを、尾池税理士の事務所において決定するに当たり一審判決は「時間が切迫していたため」に前者の方法を採用した旨認定した(一審判決書六丁裏)。また、原審では、これを「時間がかからないこと。」と言い換えているが(原審判決書四丁表)、同様の意味でしかない。

しかしながら、この「時間が切迫していた」ことあるいは「時間がかからないこと」をもって、選択の理由とすることは、何らの説得力を持たないものであるし、かえって不自然である。

右の尾池税理士による選択の際には、同税理士によって、既に記入されていた「相続税がかかる財産の明細書」の右側欄には、丈太郎が残した全不動産の価格が既に記入されていたのであって、同税理士において、積極財産を二分の一に分ける作業を行うことは、何ら時間を要するものではなく、四物件の価格を概ね一億三、〇〇〇万円になるように選定することと比べて、同程度の煩雑さで完了する作業であったと認定しうるのである。

この点に関しては、右尾池税理士の証人尋問調書の二一丁裏ないし二三丁裏にあるとおり「申告期限までの時間がなかったので一億三千万円にした。」との同税理士の供述に何ら合理性が見いだせないことから、当職が執拗に反対尋問を行い、同税理士が、しどろもどろの供述を繰り返すしかなかったことが、明らかとなっているのである。

つまり、まず、同税理士は、相続される不動産の所在地確認や、権利関係の確認作業はしていない(同証人尋問調書二二丁裏ないし二三丁表)のであり、加えて、同税理士は当時問題視していた「配偶者の税の軽減措置」が念頭にあったのみであるから、孝子が相続することとした財産以外の「その余」の財産に関して、被告人ら兄弟が、どのように分けるかは、とりあえずは問題にしていなかったことが明らかである。現に、孝子の相続する財産の額が一億三〇〇〇万円とした後も、兄弟間の分配に関しては、後日の問題として、決定を先送りしていたことからも、明らかである。

その上に、「相続税がかかる財産の明細書」には、既に各不動産が列記されており、しかも、それぞれの不動産には、その欄の右側欄にその価格が記入されていたのであるから、尾池税理士としては、孝子に相続させる財産の総額を一億三、〇〇〇万円としようが、五億三、〇〇〇万円としようが、どちらにしても大した労力の差がなく、もし、積極財産の二分の一を孝子に承継させるとしても、列記された不動産の中から、その額に満つるようにピックアップする作業に要する時間は、数分程度の差しか生じなかったであろうと思料されるのであって、孝子の相続すべき財産の金額を、積極財産の二分の一に設定することは容易になしえたことであり、これを原審のように「時間が切迫していた」ことを理由とすることは、明らかな事実誤認というべきである。

2 同税理士が、詳しく説明をすることなく、純資産の二分の一を孝子に相続させることとした理由は、原審がいうような「時間がかからない」などではない。

原審は、同税理士において「八億円の借金そのものの存在を極めて疑わしいと思っていた。」(同人の証人尋問調書三一丁裏ないし三二丁表)及びこういう借用証を証拠としても「すぐに(税務署の)調査になる」と思っていた(同証人尋問調書三三丁裏)との認識をもっていた点を看過するか、あるいはことさら無視して、かかる同税理士の心理状態には、一言も言及することなく、認定を急いでいるものである。

同税理士は、この時点では、明らかに「逃げ」の体制であったのである。八億円もの債務の計上が、ほぼ間違いなく架空の計上であろうと想像し、税務署の調査があればたちどころに架空の債務計上であることが発覚してしまうと思い、脱税の共犯となることを恐れて、この申告手続きから離脱したいものの、過去からの行きがかり上それもできず、逡巡していることが明らかであって、かかる心理情況から、同税理士は、納税義務者である被告人らに対し、詳細を説明することなく、純資産のみを二分の一とする方法を採用したものと考え、しかも、被告人らに対して、詳しい説明をすることを避けていると考えるのが妥当である。

七 遺産分割協議書の有効性について

1 原審は、被告人及び仁宏は、不十分ながらも、本件遺産分割協議に有効に加わり、被告人らの関係においては、遺産分割協議が有効に成立したものとした。

ところが、孝子においては、遺産分割協議書の内容について全く理解していなかったものと認定せざるを得なかったことから「その内容を検討することなく、また、被告人または仁宏から詳細な説明を受けることもなかったものの」と述べ(一審判決書八丁表)、これは、同判決書の一二丁表においても「被告人らから本件遺産分割協議書を示され、署名押印を求められた際にも、被告人らの判断を信頼してこれに署名押印した」と述べている。

こうして、一審判決は、孝子が直接この遺産分割協議に関与していた証拠がないことから、やむなく「委任」という概念を持ち出した上「孝子は、被告人に対して、本件遺産分割協議を含めて本件申告手続きに関するすべてを委任していた」とし(同判決書一二丁表)、孝子の直接の関与はないものの、被告人を代理人として、本件遺産分割協議に有効に関与していたものと認定している。

委任するに至った理由付けとしては「被告人や仁宏はいずれも四〇歳代の会社経営者であった一方、孝子は既に七〇歳近い高齢であった上、夫に先立たれて精神的に困憊していたものと考えられることからしても、十分首肯できるところである。」と述べている(同一二丁表)。

2 しかしながら、この「委任」論は、法的効果が孝子に帰属するとの結論を引き出すための詭弁にすぎない。

孝子は、公判廷においても、あくまでも亡夫の遺産の分割については、法定相続分に従って承継するものと考えていた旨、明確に証言しており(同女の証人尋問調書四丁裏)、被相続人の配偶者であった孝子が、相続財産の二分の一を相続するものとして認識していたというものであった。

この、孝子の相続分については、相続財産の二分の一という数字に、若干の誤差が生ずることは許容するとしても、まさか積極財産の一〇パーセント程度しか相続しないということまで、被告人に委任していたとはとうてい考えられないのである。

孝子による、被告人に対する委任契約が存在していたとしても、その委任契約には、ことの性質上、また、当時の委任者である孝子の意思に照らし、法定相続分という内部的な制限を伴う委任であって(同女の証人尋問調書一八丁裏)、本件では、その制限をはるかに越えている上、孝子においては、亡夫において、八億円もの巨額の債務負担があったと仮装されているとは、夢にも思っていなかったものであり、遺産分割協議書に目を通すことさえしていなかったため、被告人及び仁宏がそれぞれ四億円づつ債務を承継することとなっていたことも知らなかったものであるから、原判決が述べるような、最初に委任をしていたのであるから、受任者である被告人においてなした行為の法的効果が、全面的に孝子に帰属するとの考えは、とうてい採用し得ないものである。

百歩譲って、孝子が、遺産分割協議や本件申告を被告人に委任していたと仮定しても、それは「法定相続分に従って」手続きが進行することを委任していたのみであって、孝子において「たとえいかなる内容の遺産分割であっても、被告人においてなしたるものを承認する。」との趣旨にでたものでないことはあきらかである。

一審判決においても「一方、孝子は、被告人や仁宏を信頼し」と説明しているところであって(一審判決書一二丁表一行目)、ここにいう「信頼」とは、まさに同女の要望どおり、法定相続分に従っての遺産分割の趣旨以外には考えられないところである。つまり、孝子が被告人に委任していたとしても、それは、いかなる行為でもかまわないとの意思ではなく、法定相続分に準拠した分割であれば承認するというものであり、これを大きく逸脱すれば、当然被告人に対して、異議を申し立てるつもりだったと認められる。

原審は、孝子において、ほぼ法定相続分に準ずる範囲でという限定を加える意思はなかったと認定し、一審の公判廷における同女の証言は、単なる期待ないし推測に過ぎないと断定するが(原審判決書九丁表)、これは、証拠に基づかない認定であり、到底承服できない。

八 一審判決の大きな勘違い

1 一審判決の判決書のうち(事実認定の補足説明)第六項(一四丁裏)は、意味不明である。ここでは、当職において、尾池税理士が決定した本件分割方法が、極めて異例のことであると主張したことに対し、判決書において「本件のように多額の債務がある場合には、その債務を妻に相続させるよりは、働き盛りの被告人らにおいて相続させ、その債務を処理させる方が、より自然な方法であるということもできる。」とし、被告人らが、遺産分割協議書の内容を熟知していたのであるから、その責任は被告人らが負うべきであるとする。

しかし、右債務はもともと架空のものであるから、この債務の処理を担当する者が、被告人らのように働き盛りであるか、孝子のように老人であるかは、何の関係もない事柄であるし、同税理士においても、前述のとおり、この八億円が架空のものであることが、ほぼ確定的に察知していたものであるから、原判決の指摘は、何ら意味を持ち得ないものである。

これが、もし、同税理士において、間違いのない債務であると認識されており、かつ、被告人らにおいても同税理士に、架空債務を看破されずにすんでいると認識していたのならいざ知らず、同税理士においては、確定的に察知し、被告人らにおいても同様に、同税理士が架空性を認識していると思っていたもので、双方共が内心を隠して書類を作成した事案であり、一審判決の指摘は、失当であり、これを是認した原審判決もまた、不当である。

2 原審は、しきりに相続税の申告を行った後の被告人らの行為について言及し、その中でも、もし、遺産分割協議が無効であるならば、本来の意思に合致した不動産の相続登記を行うべきであるのに、これを行っていないことをもって、遺産分割協議の有効性の論拠としている。

しかしながら、弁論において既に主張しているとおり、本件の実行行為は、内容虚偽の相続税の申告書を税務署長宛に提出したことで完了しており、それ以後の事象をもって、本件の正否を論ずることはできないものであるし、登記手続きを済まさなかった理由についても、被告人は脱税工作が発覚するような行動に出るわけにはいかなかった旨の合理的な説明をしているところである。

このような原判決の理由付けには、到底承伏できない。

第三 原審で、言い渡された懲役一年一〇月、罰金三、〇〇〇万円の量刑は、被告人が第一事実及び第二事実の合計の約四億円を、脱税したとの事実を前提として課せられている。

被告人がほ脱した税額は、前述のとおり、遺産分割協議書の提出が無く、法定相続分で相続したことを前提としての約二億円にとどまるものであり、かかる前提事実を欠く量刑は、不当であって破棄を免れない。

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